〜創立期を想う 人物往来〜「運」とは良き人との出会い

久しぶりに国際色華やかな日本橋から新橋まで散策しました。
「楽しいところには、人が集まりおどおどすると吹きだまりになる」
そうですね、銀座は華やかでいつ来てもワクワクしますね。
昭和38年。東京オリンピックの頃、私は、新卒で京橋の広告代理店に就職しました。
当時の銀座通りには都電が走っていましたが、今以上に着飾った日本人で賑わい格式があり、深夜のタクシー争奪戦で活気に満ちていました。
ある日、街頭で易者に呼び止められて手相を見てもらいました。
「28歳で独立する運命腺が出ているよ。良い運を背負っているから、積極的に生きるといいね。」と言われたのが26歳。
翌年の正月、不思議な縁でオランダの豪華客船チルワ号に乗船して香港マカオへの旅にでました。
船中、大手カメラ会社の専務のお嬢さん夫妻との出会いが縁で、起業したのが28歳でした。
交通費にも事欠く日々、新宿で学生時代の友人と偶然出会い、彼の紹介で芸術教育研究所の多田信作さんを訪ねました。
幼児教育が注目されたこともありテレビ各社が子ども番組に力を入れ始めた時期、その中心軸にいた早稲田教育学部の先輩・多田信作さんとの出会いは、まさに天運とも言えました。
その日から芸研の所員待遇で、昼は幼稚園・保育園を巡回。
夜は芸研のアートスクールで現場の園長・教諭や指導者と幼児教育の基本を多田信作さんから叩き込まれました。
昭和44年。八王子の秋川自然公園の隣接地を利用した「子ども村」構想が浮かび、多田信作氏の推薦もあり応募。
子どもの宿泊構想案が採用されました。
企業への協賛訪問の結果、200名が宿泊できる大和ハウスの「子どもロッジ」、ぺんてるの「絵画村」、ヤマハの「音楽村」等も完成して、「子どもサマーランド村」の初代村長に就任しました。
この年の宿泊は62ヶ園800名近くの園児が、自然の中でカブト虫や沢蟹と戯れる川遊びを楽しみました。
26歳の時、易者に「良い運を背負っている」と言われた「運」は、私にとっては「人と仕事の出会いに恵まれる運」だったのでしょうね。
幼稚園の先生だった妻と出会えたのも最大の幸運でした。
脱サラをした会社でお世話になった黒崎真二社長夫妻に仲人をお願いして、母校の大隈会館で挙式。
入社時、黒崎さんには銀座・赤坂・六本木等の一流の華やかな舞台の表と裏の人間模様、そして、あそびと仕事の境界線から学ぶ直感力と感性の世界をすり込まれました。
昭和46年。「太陽と緑を子どもと共に」というタイトルで、幼児に囲まれて生活する私の日々の姿が雑誌に特集で紹介されました。
シンガポールの日本人向けの幼稚園の開設への誘いがあったり、NHK「歌の絵本、手をつなごう」の佐久間利直さんや、ピンポンパンの坂本新平さんとの出会いがあり、毎日が多忙でした。
静岡から健伸創立の片腕となった阿久津博君が訪ねてきたのもこの頃です。
そんな折、知人の紹介で船橋の武藤初男氏の再度にわたる訪問を受けました。
「農地解放で得た土地を幼稚園として地元に還元したい。」という相談でした。
物静かで誠実な武藤さんの人柄に説得されて、新婚間もない時期に市川から船橋に転居して、幼稚園設立に向けてゼロから出発しました。
昭和48年、木造3教室で幼児教室と児童教室の健伸学院を開園しました。
佐久間俊直(NHK手をつなごう)さんを初代園長にお迎えしました。
聖徳大学に喜田史郎先生を訪ねて開園当初の教諭を紹介いただき、順天堂大学の太田昌秀先生(体操世界選手権9連覇監督)から新卒の只野誠志先生(幼児体操)松岡一志先生(スポーツクラブ)を専任として紹介していただき、柴田衣子先生(幼稚園主任)、阿久津博先生(児童教室)が中心になってスタートしました。
また、足立区の幼稚園で実習中の根岸(青山)三重子先生との出会いもありました。
すてきな人材との出会いがさらに広がり、有名な御苑学園の仲田あつ子さん、文部省の高杉自子先生との出会いもあって、現在の健伸の教育課程の基盤を培うご指導をいただきました。
創立早々にもかかわらず、ユニークな教育がマスコミで注目・評価されました。
翌年、学校法人健伸学院として認可を受けました。
認可をいただくにあたり、私学審議員の松澤マサ先生へご挨拶に伺いました。
第一声「あらぁ やっぱり アキオちゃんだったのね」
無認可の一年間を叱責されながらも、快くご指導を頂きました。
さらに健伸行田幼稚園の開設にあたっても、松沢マサ先生から強いご推薦を頂きました。
幼い頃、市川で隣近所の縁で母が親しくお世話になり、私も抱っこされて可愛がっていただいたご縁でした。
昭和51年、健伸行田幼稚園を開園。
初代園長に喜田史郎先生が就任。
阿久津博先生が担当理事として基盤づくりを担いました。
学院長の石渡秀男さんは、自民党の副総裁であった川島正二郎代議士のご紹介で知己を得て、私が市川在住の時、建設省の専門委員として青少年の指導に当たられた実力者です。
「柴田君はいずれ大学まで創立するから皆で応援しよう」と自ら学院長を無償でお引き受け頂きました。
健伸学院創立時の多額の借入金の継承に加えて、行田幼稚園の新設建築資金を私学振興財団の融資に切り替えるにあたり、石渡秀男先生の側面からの援助がありました。
浜松からお招きした音楽講師の佐藤忠三先生。
ある日「園章の麦のように健やかに伸びよ」という願いを込めて園歌をつくりたいと話すと「今日、浜松に帰るまでに作詞して下さい」の一言。
私は別室に入り3時間籠って作詞。
佐藤先生はその場で曲を弾き、次の週に楽譜を持参されました。
絵画講師の合志幹雄先生は、私の中学時代の恩師で創立からの絵画講師です。
子どもたちに阿蘇山の雄大さを語り、一生阿蘇を描き続けた熱血漢です。
昭和女子大の理事長・学長であり、私学界総帥の人見楠朗先生には実子のように厳しく教えられ育てられました。
晩年の海外出張の折にはいつも同行させて頂きました。
ロシア・ヤスナポリヤーナのトルストイ学校での学びは、わたしにとっては人生観そのものに大きな影響を受けるほど感銘をうけました。
人見先生が吉田松陰が眠る松陰神社の人見家の墓地に埋葬されるまで28年間、昭和女子大で学生の授業を承りながら人見教育の真髄を学ぶことが出来たのもすてきな「運」との出会いでした。
人見先生の遺言は「風尚」。
「柴田さん。学校経営は門をくぐるとき漂ってくる私学としての風の香りが大切。それを『風尚』と呼ぶ。幼稚園には子どもらしい香りが漂うように努めなさい」
78年、人生さまざまなことが起き、様々な方との出会いがあり、ご指導をいただきました。
「人生に運があるなら、良き運とは人とのすてきな出会いの結晶である」と私は信じています。



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